さて、ホームページもリニューアルされ、発表されましたね。次回公演が。
そうです。『病的船団』やります!
特攻舞台Baku-団が旗揚げしたその次の年、僕が本当に心血注いで書いた作品でして、、、、。再演も2回。リミックス1回。とても思い入れのある作品です。
現在の特攻舞台Baku-団の礎となったと言っても過言ではないでしょう。
ご存知の方もそうでない方にも是非観てもらいたい。
僕の人間への思い、こっぱずかしい愛情を全て赤裸々に突っ込んだ作品です。
時を経て、それがただの懐古だけではなく、新しい特攻舞台Baku-団への創世となるよう、頑張っていきます!
てなわけで、今日紹介するのは、僕のプロレス好きの礎ともなったこの男。

ジャンボ鶴田選手です。
全日本プロレス所属。196センチの恵まれた体格と、オリンピックにも出場したアマレスのテクニックで、日本のプロレス界を支えた伝説のレスラーです。
アマレスエリートからプロへ。『プロレスに就職します』という入団での発言は、今もプロレス名言としてファンからも愛されています。
僕が鶴田を見始めたのは、1990年代。
それ以前の事は、記録でしか観た事ないのですが、長州、天龍ら日本人ライバルと激闘。
そして、ハンセン、ブロディ、ロードウォーリアーズら巨大外国人とも堂々とぶつかりあっていたといいます。ジャイアント馬場から、正式な後継者の任を受け、当時のファンからは、プロレスラーで最強は『ジャンボ鶴田』だと言われていた程。
でですよ。僕が観たのが1990年の深夜の全日本プロレス中継。
当時、SWSという新団体に大量に選手を引き抜かれた全日本プロレスで、たった一人残ったエースがジャンボ鶴田でした。
その圧倒的な強さは、今で言う所の朝青龍といった所でしょうか。
ゆえに、それにガムシャラに向かって行く若手の三沢光晴、小橋健太、川田利明ら『超世代軍』、つまり後の全日本四天王世代は、若い女性から絶大な人気を得たのでした。
僕の友達は皆三沢を応援していました。
しかし、僕は鶴田のその圧倒的な強さに惚れました。
『岩石落とし』とも呼ばれる、ものすごい高さからのバックドロップ。
一発で試合の流れを変えるラリアットや、ダブルハンマー。
相手の腰骨が折れてしまうんじゃないかと思える、拷問式コブラツイスト。
そして、会場中が『オー』というかけ声で一体になる、ジャンピングニーバット。
新日本プロレスのライガーからプロレスファンになった僕は、この当時、完全に全日本プロレスのファンになっていました。
そのくらいジャンボ鶴田は圧倒的な存在感だったのです。
本人の優しい性格からか、いわゆるシュートな強さを求めるファンからは敬遠されていましたが、間違いなく『プロレス』なら最強だったと言えるでしょう。
未だに、三沢が好きになりきれないのは、そんなジャンボ鶴田を超えていったからかもしれません(苦笑)
しかし、最強の男に、神は試練を与えたのでした。難病B型肝炎を患い、事実上の引退。
それでも、鶴田はプロレスを愛し続けます。
その後、大学院にてスポーツや医学について勉強し、プロレス界にまた違った貢献を使用としていたときでした。
ジャンボ鶴田49歳の時、手術中の出血多量により、死亡。
僕は今もタマに、一人部屋で、鶴田の入場曲『J』を大音量でかけます。
すると思い出すのです。
僕が小学生のときを。深夜2時に、親の目を盗んでわくわくしながらテレビをつけた時を。
大きな男が拳を天高く突き立て、会場中のファンが『鶴田! オー!』を合唱。
僕も小さな声でテレビに向かって、合唱。
鶴田が三沢をバックドロップ。フラフラの三沢がカウンターのエルボー。
もう一発行こうとした時に、カウンターのジャンピングニーバット!
会場が『オー!』
そして、興奮して中々眠れなかった僕は次の日、学校で友達と論争するのです。
『やっぱり鶴田が最強や!』『いや、三沢や!』そんな若き日。それが僕のプロレスの源流。
そうです。辛いときは、天国の鶴田に拳を突き上げてやるんです。僕は。